同窓生による座談会

過去を振り返り、そして未来への願い

日 時:令和5年6月17日(土)
場 所:横浜清風高等学校 小会議室
出席者:安田節子(昭和42年卒・同窓会会長・前社会科教諭)
    坂口優子(昭和41年卒・同窓会副会長・前体育科教諭)
    荒海由美子(昭和41年卒・同窓会副会長・元事務長)
    浅野由里(昭和51年卒・前福祉科教諭・同窓会幹事)
    吉田千春(昭和53年卒・元事務職員・同窓会幹事)
司会・進行・編集・録音
    政野屋陽太(平成23年卒・現社会科教諭・記念誌係)


司会
本日はお忙しい中をお集まり頂きまして、誠に有難う御座います。今日は皆様の過去のストーリー、現在の学園の印象や将来の学園に望むもの(展望)をお話しいただければと思います。色々と伺えればと思い非常に楽しみにしております。まずは過去の思い出(ストーリー)について、お話頂ければと思います。

安田
現在のことはあまりわかりませんが、当時は同級生とかなり密接な関係性を築いていたと思います。

司会
それは、どうしてですか?

浅野
当時はクラス替えがなく、3年間同じクラスで過ごしたのが理由ですね。クラス替えが始まったのは昭和50年まではクラス替えはなかったんです。ちょうど、吉田さんが入学された時ぐらいですよね、クラス替えが始まったのは。

吉田
そう、1年生から2年生へ上がる時にクラス替えがありました。今と同じで、私の代からでした。昭和51年の4月から初めてのクラス替えがあり、現在にいたります。もうその時代を知っている方は、現在学校には残ってないですね。当時は、“クラス替え反対運動”が生徒たちから起こりました。

坂口
そんなことが起こっていたのですか。ちなみにあなた(吉田)はどっち派だったの?反対派、賛成派?

吉田
その当時は、“もう仕方ないじゃん”って思ってましたね。

浅野
実際、3年間担任もクラスメイトも変わらなかった時代は、クラスがとてもいい雰囲気であれば、かけがえのない思い出になるけれど、もしうまくいかなかったら大変な3年間になるよね。今考えたら。

坂口・安田
“大変な思いはしなかったね”

安田
私は明中(明倫中学校)からだったから、さらに仲良かったですよ。

司会
中学校があった時代は聞いていましたが、実際に通われていたんですね。

荒海
円形校舎で一緒に学んでましたよ。北校舎に普通科と中学校が入ってましたね。体育祭も球技大会も一緒に参加していたし、高校生との交流もありましたね。

安田
最後の明中の子たちは、北校舎ではなく、南校舎と北校舎を結ぶ渡り教室の四角い教室だったのよね。人数も少なくなって中学校も閉鎖してしまったのよね。

荒海
私たちの学生の時は、まだ体育館だけで渡り教室もありませんでした。ちょうど作っている最中でした。
まだ、周囲に建物も少なく、保土谷駅が学校から見えたものです。修学旅行は、夜行列車で学校から手を振って見送る事もしてましたね。当直の先生が学校全部の電気をつけて見送ってました。

浅野
昔の修学旅行は、新幹線で大阪まで行って、バスで高野山に向かい、そこで2泊。そこから大阪まで下りて、夜行列車に乗って、九州にいった記憶がありますね。

安田・荒海・坂口
大坂からフェリーで私たちの時は行きましたよ。宮崎まで。

浅野
私の時は、逆でして。宮崎から帰りにフェリーで川崎まで帰ってきましたよ。

一同
フェリーで!?

浅野
そうなの。だから修学旅行は新幹線、バス、夜行列車そして、フェリーで7泊8日でしたね。

坂口
大変だったけど、とても楽しかったわよね。一番の思い出になってるよね。今でも覚えてる。

浅野
クラス替えがなかったからこそ、修学旅行も充実して、その時の仲間とは今でも仲良く交流してますね。

安田
話は少し戻しますが、私は明中出身だったの。中学1年生の時に総合進学クラスというのが設置され、最初の生徒が私たちで、その頃から進学指導というのが始まったのよ。だからこそ、中学校から高校まで6年間クラス替えはなく、その団結力はとても強かったのよ。

吉田
私はA組で特進クラスだったんだけど、とても賑やかなクラスでやっぱり仲は良かったね。でも半分はしっかり大学進学したかな。

坂口
私たちの時代は、大学進学はまだ少なかったわよね。

荒海
そうね、総合クラスが4クラスで、あとはD組が家庭科だったかな?

司会
へぇー、家庭科クラスというのがあったんですね。ということは、当時は家庭科、福祉科、特進があったということですか?

安田
福祉科はまだなかったわよ。福祉科に関しては、もっと後に設置されたの。10年間だけのほんの一時のクラスだったんじゃないかしら。

浅野
A組が特進で、B組・C組が普通科で、D組が家庭科だったのよ。そして、商業科。

坂口
商業科は、ずっと呼び方は商業科だったわよね。普通科の中の特進と家庭科だったのよね。だからD組だったのよ。

吉田
そして、家庭科と商業科がなくなって、福祉科ではなく、福祉コースが設置されたのよね。

浅野
2000年入学の生徒たちが福祉コース第1期生でしたね。

司会
私が卒業したのが2010年で、その代が福祉コース最後でしたので本当に10年間だったんですね。

浅野
でも、その短い期間に国家資格を取得した生徒は非常に多かったですよ。大人も入れて合格率が50%ぐらいの国家資格を、福祉コースの生徒たちは70〜80%ぐらいの合格率を出してましたよ。ものすごく勉強しましたけどね。

安田
それでも、福祉コースはなくなってしまったのよね。何故なのかしら。

浅野
大学進学を目指す学校に方向転換をしたことがきっかけだと伺いましたね。進学校を目指した結果、福祉コースをなくす判断をしたそうですよ。

司会
そうだったんですね。そして現在では多い学年では、特進クラスは4クラスと増加し、総合進学クラスには、選抜クラスとグローバルクラスが設置されていったんですね。

浅野
また、今年の3年生が福祉の授業も最後になるんですよね。

吉田
卒業したあとも活躍が多かった福祉関連の授業が無くなるのは寂しいものがありますよね。現在は、大学進学率が70%ぐらいでしたっけ、大学に入るための面倒見はいいとは思いますけど、昔は卒業したあとも面倒見が良かった印象があったから、そこは是非引き継いで欲しいと願いますね。

浅野
仏教の人間教育を重んじていた学校だったからこそ、福祉の役割が大きかったと思うんですよね。進学に向けてもわかるのですが、やはり残念な気持ちもありますね。

安田
横浜清風の強みというのは、知恵と慈悲とで宗教教育を根っこに持って教育をしてきたと思うんですよ。時代によって、求められるものは変化することもあるけれども、今、百周年で学校が次のステップアップするにあたって、これから世の中に期待され、必要とされるのは人間作りであろうと感じます。我が校がこれから生きていくためには、取り組んできた宗教教育を根本とした人間形成が強みにもなるんじゃないかと思うんです。未来に向かって、培ってきた歴史と伝統を大切にすることこそが何よりさらなる100年に向けて大切なことだと思います。

司会
皆様の貴重なお話ありがとうございました。今までの歴史の流れが、その時代を歩まれていたからこそ、この座談会を通して、非常に伝わりました。この学園がさらなる100年に向けて、発展していくことを願いながら、座談会を終了させていただければと思います。
ありがとうございました。

一同
ありがとうございました。